幼春その後 第五章「錯覚」
僕はN子の許しを得ず、ずっと我慢していたタバコに火をつけた。
N子は僕の方をまっすぐ見てこう言った。
「私はどうしようもなく子供だったのね。あなたには本当にひどいことをしました。ごめんなさい。こうやって謝る機会を得られたことを感謝しています。」
「結局錯覚した僕がいけなかったんだと思うよ。」
「これでトゲがとれたかどうかわからないけど、ごめんなさい。」
さらにN子は話した。
「私は子供だったの。好きになる相手には大人の人を求めていたのよ。あなたは私と同い年だものね。」
年齢は関係ないだろうけど、確かにその子供のN子に僕は振り回されていて、それを制御することもできず、唯々諾々と従っていた部分がほとんどだったと、僕は思い出していた。
「君は手紙で自分が錯覚したって言ったでしょ?」
「うん。あれはね。」と言って少し間をおいた。
「あなたが遠くに行ってしまったことで、一瞬「仮想恋愛」と言ってよいのか、そういうものに私がとらわれてしまったの。それが、言ってみれば私の錯覚だったのね。そのせいで、あなたに錯覚を与えてしまったのね。」
ここまではっきり言われてしまって僕は、会う前に思った自分の予想が完全に裏付けられたことを知った。僕を愛したことはない、僕を愛していると錯覚した、と言ってるのだ。その錯覚は事実、「彼女も僕を好きになった」、「結婚してもいいと思ってる」と言う僕の大いなる錯覚を呼び、そしてあの結末に至ったのだ。
確かにひどい話である。その話を聞きながら、しかし僕は微笑んでいたに違いない。若いときの絶望的な僕のバカさ加減にあきれながら、同時にそんな自分を逆にいとおしく思って。当然そのことを僕に話してくれるN子の気持ちにも感謝しながら。
僕は手紙のやりとりを再会するまで、十七年間ずっとなんでふられたのか、どこがいけなかったのか悩んできたし、あの別れ以降、僕のことをうらんでいるのではないかと思っていた。手紙によってそれが見当違いであったことが少しわかり、そして今、N子本人の口から直接真相を知らされたのである。
「錯覚か。」と僕はつぶやいた。
しかし、場の空気は会話の中身に無関係になごんでいた。僕は事実ほっとしていた。長い間の呪縛から解き放たれた思いで。僕は、彼女の思いとは独立にいわば勝手にN子を好きだったのだ。N子はそれを知った上で友人としてつきあおうとしていたのだ。
「人間の感情ってどうしようもないね。」と僕は笑った。N子も微笑んだ。
今の僕はN子に影響を与える位置にいないし、彼女もそうだ。だからこそ、ここで当時の思いを率直に述べられるのだとも思った。僕は改めて会えてよかったと思っていた。N子も、気持ちが軽くなった筈だ。
僕はそう思った上で、そのことは最早どうでもよいと言える気持になった。N子もそのことを伝えるだけならば、こんなににこやかに明るくそして楽しそうにしていないだろう、と僕は思った。それは愛し合える間柄にはなれなかったけど、やっと、彼女の昔求めていたかもしれない「結婚しても会える」友達関係になれたからなのだと僕は確信した。なんて幸せな関係だと納得した。