幼春その後 第四章「午後」




僕たちはずいぶん長く塔の茶屋にいた。僕が支払ったあと、昔のようなかたくなさはみじんもなく、彼女は自然に僕に礼を言った。
「ああ、おいしかった。見かけ少ないかと思ったけど、おなかいっぱいになったわ。」
「僕もそうだよ。ゆっくり食べたのがよかったかな。」
「ねえ、一の鳥居はこっちの方向よね。」とN子は唐突に言った。
「そうだよね。」
「御祭りのときにね、その前でお祈りする松というのが一の鳥居の近くにあるんだって。こないだ知ったのよ。そんなのあったかな、と思って気になってたの。見に行かない?」
僕は今一つ意味が飲み込めなかったけど、断る理由も無く、
「うん、行ってみよう。」と答えた。
春日若宮の御祭りは奈良に冬を呼んでくると言われ、春を呼ぶお水取りと並んで季節感のあるお祭りである。
藤原氏の氏神である春日大社参道の入り口に立っている一の鳥居のところにやってきた。鳥居をくぐってすぐ右手に、柵で囲まれた大きな木の切り株とその後ろに若い松の木が立っていた。
「これがそうかな?」
「そうよ。この切り株がそうだったのね。今は跡継ぎの松がその後ろに控えてるのね。」
「これが何だって?」と僕は説明板を読んだ。能舞台には必ず背景に松の木が描かれているが、その起源となった松らしい。
N子の好奇心はとりあえず満足されたようだ。
「ねえ、初詣した?」とN子が聞いた。僕はここに詣でたかという質問ととらえて、
「いいや。」と答えた。
「じゃ、行こうよ。」とのN子の誘いに乗って僕たちは、春日大社の参道を歩き始めた。雪はやんでいて太陽が雲から顔を出したり隠れたりしていたが、いずれにしても寒かった。長い参道をゆっくりと歩き、お宮に着いた。そこは式年改築の最中で本殿前には迂回して入った。賽銭をあげて手を合わせた。またもや僕は真っ白の頭のままで、「ありがとうございます」とだけ唱えた。N子はまたもや長い間手を合わせていた。
本殿の中ではちょうど結婚式の最中だった。神社の中でウェディングドレスとモーニング姿のカップルが神主の前で頭を下げていた。そのウェディングドレスと神社は妙な不釣り合いであった。僕たちはぼんやりそれをながめていた。やがてふたりは誓詞を読み始めたようだった。僕らはそれを見ながらそこを離れた。
元来た参道をまたゆっくりと僕らは戻った。二の鳥居をくぐったところで新薬師寺への道が分かれ、そのあとささやきの小径の入り口を通り過ぎた。空にはヘリコプターが二機やかましくホバリングしていた。
「うるさいね。何だろうね。」
「今日は若草山の草焼きじゃないかな。」
「山焼きだろ?」
「ううん。山焼きは雨でだめだったの。だから今日、昼間に草を焼くんだと思う。」
「ふーん、その取材か。」
「そうだと思うわ。でも煙が見えないわね。」
そんな会話をしながら僕たちは一の鳥居をくぐり、そのまま三条通りを西に直進し、猿沢池のほとりに下りた。そのとき、N子は、
「私ともし結婚していたら、きっとあなたは不幸になっていたわ。」と言った。
そこで会話は少し止まった。
猿沢池に手児奈が身を投げるときに衣をかけた柳があったらしき跡を見て、池をぐるりとめぐっていたとき、
「I君の言ってた例の餅飯殿の喫茶店に行ってみようよ。」とまたN子が提案した。
その喫茶店は、ふたりが昔何度か行ったことのある、そして恋愛の対象じゃないとN子に宣言されたことのある、僕にとっては思い出のある白門館と呼ばれた店だった。でも、その喫茶店はもう何年も前に僕がひとりで訪れたときにはすでに存在していなかった。
「もう無いと思うよ。でも行ってみようか。」と答えた。
 僕らは猿沢池から元林院町と表示のある狭い通りを餅飯殿通りに向かった。この町は古い花街で、若い芸者とすれ違った。
「ねえ、この看板おもしろいわね。」とN子は酒屋にかかっている古い看板を指さした。常に好奇心いっぱいのN子であった。その看板には日本酒の樽が浮き彫りされて三つ並んでいた。たしかに言われてみると、その古さが醸す情緒はなかなかのものだった。
「私ね、車を運転していても全然道を覚えないのよ。おもしろいものが目に入ってそんなのばっかり見てるからきちんと道を覚えられないのよ。おもしろいものが点として頭に残るだけでね。」
「いやだなあ。そういう人には運転してほしくないな。危ない。」
 笑いながら餅飯殿通りに入っていった。
「こんなに細くてさびしい通りだったかしら。」
「もうちょっと昔はにぎやかだったような気がするね。」
「白門館はどのへんにあったかしら?」
「ひょっとするとそういう店があったという記憶は僕の間違いかもしれないよ。」
「店の名前はともかく、私もその喫茶店があったことは覚えてるわ。」
「僕の記憶では確か三条通りから餅飯殿に入った角にあった筈なんだけど。」
その角地は、更地になっていた。白門館のあとに何か店ができてそれから更地になったかもしれないが。
「ここにあったのね。」
「そうだね。」
僕らはその柵に囲まれた更地を少しぼんやりと見ていた。しばらくしてN子は言った。
「前に姉と行ったことのある喫茶店がよかったからそこに行こうか。」
 僕は目でうなずいて、そこを後にしてにぎやかな東向き通りに入った。
「あれ、このあたりだと思ったんだけど。ずいぶん変わってしまったわ。」
僕は小さな喫茶店の看板を見つけ、
「ここじゃないの?」と聞いた。
「よかった。あった。入ろう。」とN子は言った。
僕が先に階段を上った。
店には平日の昼間にふさわしく中年の女性たちがすわっていた。僕たちは空いた一角に席を定めた。店の奥には棟方志功の版画がかざってあった。めざとくN子はそれをみつけた。N子の卒論のテーマが棟方だったのだ。
その喫茶店は紅茶がお勧めのようだった。僕はミントティーを彼女はローズティーを頼んだ。ガラスのティーサーバに入ってきたので、カップ2杯分はあった。
「あとで取りかえっこしようね。」とN子は言った。
そこで僕たちは少し沈黙した。となりの中年女性の声だけが大きく響いていた。
   
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