幼春その後 第三章「きっかけ」
再会の四年前だった。僕は、N子とは全く関わりのない別世界で生きていた。結婚し、子供ももうけ、会社でもそれなりの位置にいて、N子との別れがきっかけとなった趣味のマンドリンやギターもずっと続けていた。でも、折に触れやはりN子を思い出し、また彼女との別れを悔やんでいた。気の置けない友人の前ではその話をくどくどと話すこともあった。そんなとき、友人のひとりがこう言った。
「まるで小説のような世界かもな。一度、あったこと、思っていることを文章にしてみたらどうなんだ。」
彼には酒の席での軽口だったのかもしれないが、僕には大きな動機になった。僕はそれから会社から安く買い取った中古のコンピュータを使って、昔の日記を引っぱり出して、高校時代のN子との出会いから、あのつらい別れにいたるまでの十年間について、数十ページの書き物にした。当然身勝手な思い、美化された思い出、自分の正当化が多分に含まれたものでノンフィクションというよりも創作になってしまったが。僕は自分の幼い青春の記憶の記録として「幼春」とその書き物を名付けた。きっかけを与えてくれた友にはそれを見せた。感想は、「これではどんな女だっておまえを見限るぜ。」であった。
第三者には、最後の別れにいたる僕の手順誤りが、N子を得ることができなかった原因に見えたのであろう。僕の中でも、幼春を書くまでその思いが強かったのだが、順番に書いてみると、N子はある一瞬を除いて何も態度は変わっておらず、一貫しているのが見えてきた。とすると、この一瞬の彼女の様変わりは単なる気まぐれだったのか、あるいは、その瞬間は本当に僕のことを恋愛対象と思ったのか、それとも僕が単に大きな錯覚をしたのか、のいずれかだったとわかってきた。僕の心の中に刺さったままになっているトゲは、彼女に刺されたのではなく、僕が勝手に刺していたのかもしれないと思えてきた。当然、僕は一瞬でも彼女が僕を好きだと思ったと信じたかったが、自信がなくなり、さらには自分の哀れさに同情さえ覚えた。
僕は、無性にN子に確かめたくなった。それは今となっては、何の意味も持たないのかもしれない。確かめることによって、この毎日が変わる訳もなく、ひょっとするともっと悲しい思いをするのかもしれないのだ。でもどうしてもN子にもう一度会いたい思いが強くなった。正面から会いにいくにしても、彼女の今の住まいがわかる訳もなく、ましてや親元に直接訊ねる勇気はさすがになかった。で、僕は一計を案じた。幼春を書いて二年たったころ、長い間連絡をとっていなかった高校時代のマンドリンクラブの同期の現在の名簿を整理しようと思いついた。名簿の整理であれば、僕が現在のN子の住所を聞くことはそれほど不自然ではない筈だと思ったのだ。
そのときから僕は、文字通り必死に名簿整理を始めた。十年前に届いたマンドリンクラブOB会名簿の電話番号をたよりに番号探索ソフトを用いて現住所を割り出せた者には直接本人あてに往復はがきを送った。それができなかった者にはむかしの親元の住所に問い合わせのはがきを送った。N子は後者であった。ぽつぽつと返事が戻り、不明だった者も、連絡があった者から教えられて判明したりもした。N子はたまたま親元に暫定的に住んでいたのか、親あての問い合わせに本人から返事が来た。きわめて冷静な、何事もなかったかのような「またお会いしたいですね」とのコメントが、あの昔見なれていた字で書かれていた。僕は返事が来ない恐れも十分あると見ていたので、驚きながらそれを読んだのだ。
結局同期全員の現住所が判明した。僕はみんなのコメントと住所録を小冊子にして全員に郵送した。これによって同窓会を開くことも可能となったのだが、僕にとってはN子の居場所を知るという所期の目的が達成できたことでもう十分だった。これで一歩近づいた。僕は一九九七年の年賀状を同期全員に送った。当然N子にも。返事も来た。
その年の春に引っ越すと本人が知らせてきていたので、僕は新住所から電話番号を見つけだすことができた。そして僕は何度も何度も逡巡したあと、ついに電話をかけた。住所と電話番号の確認のために、と言って。僕が名乗ったとき、N子がすぐに僕を認識してくれたことに一安心しながら、とりとめのない話を短い時間した。僕はあれほどトゲとしてつらくひっかかっていたN子と、世間話のような会話をしただけで電話を切ってしまったのだ。電話の会話からは彼女の気持ちなどもほとんど推測できず、まるで何事もなかった同級生としてお互い敬語で話しただけだった。僕はあれほどためらってやっとの思いで電話をしたのに何も得るものもなく切ってしまった。これでもう会うきっかけも話す口実もなくなってしまったのだ。
その少し後、僕は幼春を装丁した。そんなころ、僕は奈良の大学で教授をしている友人から講演を頼まれ、奈良に行く機会を得た。僕はN子にこの幼春を手渡しできたらと思い始めた。奈良行きの出張用バッグに幼春を忍ばせて行った。でも結局連絡する勇気が僕には出ず、そのまま持ち帰ってしまった。その後もいつも幼春はバッグにあった。
その幼春を、一九九七年の六月の終わり頃、僕はついにN子に郵送してしまった。「ご笑覧下さい。」と書いてはみたものの、彼女が僕の勝手な論理に立腹するのか、あるいはつらい思いをするか、それはわからなかった。全く僕の身勝手だった。昔の唐突なラブレターと同じように後先を考えない衝動的な行動だった。
でも七月七日の日付で返事が来た。やはりだいぶ悩ませたようであったが、そこにはあの別れ方に対する率直な詫びが書いてあった。
僕はこれでほぼ答を得たのだ。つまりN子は僕と別れたことでは無く、別れ方について詫びていたのだ。だから、僕が最後のときにどういう態度を取ろうと結局のところ、N子は僕のものにはならなかったのだろうと理解した。やはり悲しかった。でも、ある意味ですっきりした。僕は一瞬にしろN子が僕を好きになったんだと錯覚していたのだ。その錯覚が悲しくやりきれない別れを呼んだのだ。僕の心にささっていたトゲはやっぱり僕が勝手に自分で刺していたんだ。答がわかってしまい、彼女と再会し確かめるという僕の所期の目的は会うことなく達成できたことになった。でも逆に、彼女が望んでいたのであろう友人として再会し、文字通り旧交を温めることが今ならできるという思いを持った。会いたいと強烈に思うようになった。
七月のアメリカ出張に向かう成田空港で手紙を書いた。苦しい思いをさせてしまったことと自分の錯覚に気づかなかった不明を詫びた。その上で旧友として会えないかと書いた。
月末に返事が来た。「錯覚は自分がしていた」、「トゲを刺したのは自分だ」、そして「七月にちなんで七夕ごっこしてもいい」とあった。僕には今ひとつ彼女の言う錯覚が飲み込めなかった。
しかし、これで僕たちは再び会う機会を待つだけになったのだ。そして六カ月後の今日、大阪での講演の機会をとらえ、ここ奈良で再会を果たしたのだ。