幼春その後 第二章「昼食」
僕たちは千両の実以外、色のついた花ひとつ無い依水園を外からのぞいてから、大通りに出た。県庁を右手に見ながら通りをまっすぐ南に下った。再び、人力車の若者が声をかけてきた。今度もN子はにこやかに応対した。道を渡り、興福寺の近くまで来た。
「おなかすいてない?今日は朝早く食べた?」
「今日は普通に起きたわ。もう何時かしら?」
「もう十二時近いよ。お昼にしようか。」
「そうね。」
このとき、僕には全くどこで昼御飯を食べるというイメージもなかった。漠然とにぎやかな商店街の適当なレストランにでも入ろうかな、と思っていた。
「ねえ、茶粥食べたことある?」とそのときN子は聞いた。
「茶粥ってさ、奈良県人だからさ、小さいときはよく食べさせられたよ。でもね、あんまり大きな声で言えたもんじゃなかったさ。それはね、貧乏だったから、お粥でおなかいっぱいにしてたんだもん。」
「そうなの?」
「そうさ。昔はそういう家が多かったさ。でも、最近は観光名物なんだよね。不思議な感じがする。」
「じゃ、お昼に茶粥はいやよね?」
「いやいや、さっき言ったように、名物になってる茶粥ってどんなものか試してみたいよ。多分自分だけじゃ食べないから。」
「塔の茶屋って知ってるでしょ?」
「知らない。」
「有名な茶粥を食べさせるところよ。この近くなのよ。」
「よし、そこに行ってみよう。」
戒壇院と言い、塔の茶屋と言い、これは多分N子が事前に計画していたんだろうな、とそのときに僕は気づいた。結局僕はN子にリードされている。昔のままだと改めて思った。
僕らはのれんをくぐって引き戸を開けてその小さな茶屋に入った。
「相席ですけど。」と言われて案内されたのは、多分この店にはお茶をたてる茶室以外にはその部屋しかないのであろう小さな畳の部屋だった。そこには八枚のざぶとんがあって、先客は誰もいなかった。僕たちは床の間に向かい合う形で奥の席に並んでついた。床の間には掛け軸があった。
僕たちは少し緊張しながら茶粥弁当というものの到着を待った。そうこうするうちに四人組の男性が入ってきた。話の中身からするとどうも奈良に来たふたりの客の接待をふたりが行っているようであった。
やがて運ばれてきたのは、茶粥はもちろんだが、甘酒、数の子、昆布巻、黒豆と言ったまるで正月料理のような弁当であった。
「お正月ね、まだ」とN子は言った。
「そうだね、この料理は。」と僕は応えた。
「このお吸物の香りは何かしら?」
「わかんないよ。」全くそういうものに疎い僕にはわからなかった。
「えっとね。そう、これはふきのとうね。きっとそうだわ。」
「そう。」
茶粥は子供のときに食べたものとはまるで違う味付けの薄い上品なものであった。僕は慎重に食べる速度をN子に合わせた。
「私ね、食べるのが遅いのよ。I君も遅いね。あ、ひょっとして合わせてくれてるの?」
僕は微笑みながら曖昧にうなずいた。
ゆっくりと食事をしている間にさきほどの団体は忙しく消えていった。ここでも戒壇院と同じく時間はゆっくりと流れていた。
「ねえ、あの掛け軸、何の絵かしら?」
見過ごしがちになるものに興味をいだくN子は、やっぱり昔のままだった。
「太鼓叩いてる人の横の人は何もってるのかしら?」
そこには、大道芸人風のふたりの男が描かれていた。わかりにくいが、もう一人は扇子を持っているように思えた。
「扇子持ってるんだよ。」と僕は答えた。
N子は掛け軸に近寄りじっと見ていた。僕はそんなN子をじっと見ていた。
「そうだわ。こっちの人が太鼓を叩いて、もうひとりがそれに合わせて踊ってるんだわ。おもしろい。」とN子はうれしそうに僕を振り返った。
やっぱりN子だ。僕はそんな彼女の様子をながめながら妙に落ちついた満たされた思いであった。ここで静かに時を過ごしている二人は、あのつらく悲しい時を共有した同じ二人なのだから。僕たちはまだ何もあのときのことについて話していない。でも、あの時があって、そして長い年月わだかまりを抱えてきて、そして僕の与えたきっかけでここに再会したことでそのわだかまりは静かに融けてなくなろうとしているのかもしれない。