幼春その後 第一章「再会」




僕は近鉄電車の車中の人だった。1月も終わろうとする寒い日であった。平日の昼前乗る人もまばらな奈良行き普通電車はゆっくりと平城京跡の中を走っていた。南側の窓からは再建されたばかりで公開を待つ朱雀門のあざやかな青と朱の色が僕の目に飛び込んできた。枯れた色が奈良の色だとずっと思ってきたけれど、八世紀の平城京はきっとこのように鮮やかな青丹色でいっぱいだったんだろうと思った。見なれた風景がその本来の姿であるのかどうかなんてわかりはしないものなんだとも思った。
電車は高校時代に通学で乗り降りしていた新大宮駅を過ぎたところで地下にもぐり静かに奈良駅に到着した。改札を出て、かかえていた重い荷物をコインロッカーに預けた。まだ十時三五分であった。約束まで二五分あった。僕は帰りの特急の時刻を確かめてからエスカレータを上がっていった。めざすは行基像を望む駅ビルの一階であった。二〇年ほど前にもこうして何度もこの駅に降り立ち、そして毎回同じようにエスカレータを上がり、夏は行基像の噴水の前で、冬場は噴水を望む駅ビルでN子と待ち合わせたものであった。しかし、そのいずれの時よりも強い緊張感と胸しめつけられる思いに僕はとらわれていた。
僕は時間を確かめて駅ビルから外に出た。奈良盆地の寒さが襲ってきた。粉雪も少しちらついていた。僕は期待と緊張に耐えかねて、意味もなく東向き通りに入り、みやげ物屋などを見て歩いた。ショウウィンドウに写る自分の中年の姿を再認識してから、すぐに駅に戻った。行基像の前で寒さに耐えながらタバコを吸った。そして再び約束の駅ビルに入っていった。十時四五分であった。
駅ビルの中には寒さを避けた人待ち顔の女性や数人の中年女性のグループが所在なさげに立っていた。僕はその狭い、観光案内所以外に何もない駅ビルの中をうろうろと歩き、再び外に出てまたタバコを吸った。十時五五分になった時駅ビルに戻った。
僕はエスカレータから上がってくる人が見える場所に立ち待った。そして十一時になる直前、N子が現れた。彼女はエスカレータを上がるとそのまま駅ビルのガラス戸のところまで歩いていき行基像の方を見た。僕は一瞬の間をおいてからゆっくりと彼女に近づいていき、横に立って彼女をのぞき込むようにしながら「こんにちは」と言った。一瞬驚いたような表情を見せたN子はすぐに笑顔に戻り「こんにちは」と返した。最初にどういう挨拶をするかいろいろ考えていたが、出たことばは最も無難なことばであった。僕はそれから彼女の方を見ずにすぐにガラス戸を押し開けながら言った。
「寒いけど外を歩こうか。いい?」
「いいわよ。そうだ、戒壇院に行ってみない?」
「いいよ。」
「入ったことあったっけ?」
「僕はないよ。」
そしてN子の顔を見た。微笑んでいた。さすがに目の回りの年齢は隠せないが、でも想像以上に昔のままのN子がそこにいた。体型も変わらずあの一九八〇年七月に最後に見たN子とほとんど同じに見えた。
「今日は会えてうれしい。ほんとに来てくれてありがとう。」と僕は言った。
「私も同じよ。会えてよかった。」N子は言った。
「雪が降ってるね。やっぱり寒いや、奈良は。」
「そうね。今日はほんとに寒いわ。」
僕たちは十八年も会っていないことが感じられないほど自然に会話した。登大路を歩いていると、昔はいなかった観光用の人力車の若者と出会った。しきりに乗れと誘うが、彼女は軽く明るくいなした。
「このあたりはシルクロード博のときに来たよ。そのときにはいなかったね、人力車は。」「私ね、折に触れてあなたのことは思い出していたわ。今どうしているかな、とか、博覧会のときも帰省して見に来ているかなとか。」
僕がこだわっていたように私も忘れていなかったと伝えたかったのだろうか。
横断歩道が無いため、道を少し引き返したりしながら僕たちは戒壇院の案内板に沿って進んだ。狭い通りを車を避けながら戒壇院に到着した。
「すてき」と彼女は言った。
「すてきな建物だと思わない?」
僕はその対称形の二階層の立派なそして古びた建物を見上げた。それから僕たちは階段を上っていった。この階段はN子と一緒に東大寺二月堂からの帰りに降りたことのある階段であることを僕は鮮明に覚えていた。N子が覚えているかどうかはわからないが、あのときも寒い時期、たしか二月だった。この階段をおりていくときN子がよろめいたのだった。それを支えようと彼女のコートの肩を僕がつかんだとき、「大丈夫よ。支えてもらわなくても私大丈夫よ。」と言われたのだ。僕の支えなくとも生きていける、というような意味に僕はそのとき受け取ったことをぼんやり思い出していた。
N子が拝観券を買ってくれた。
「私が誘ったんだから」と言いながら。
そして僕たちはお堂に初めて入った。
「わあ、私たちだけ?」と言ったすぐあと、係りの老人がすわっているのを見つけ、ばつが悪そうに「いらしたわ」とN子が言った。
靴を脱いで上がった。そこには本尊である釈迦と多宝の二体をおさめた小さな多宝塔があって、その回りを、持国天、増長天、広目天、多聞天、の塑像の四天王が守って立っておられた。
「お詣りしようよ」と彼女は言って、本尊に手を合わせた。僕もそうした。しかし、僕の頭の中は真っ白で何もことばも思いもなかった。彼女は長い間手を合わせていた。それから僕たちは四天王をひとつずつ見ながらお堂の中を一回りした。
「リアルね。こんなにこわい顔をして守っているのね。」ゆっくりとひとつずつ見上げながらN子は言った。
「そうだね。」と僕は相槌だけだった。
あの鑑真が大仏建立をした聖武天皇に仏教の戒を授けたことを記念して建てられたこの建物の中にはゆっくりとした時間が流れていた。係りの老人に礼を言って僕たちは靴を履いて外に出た。
「お堂の外を回ってみようよ。」との彼女のことばに従い外も一周したが、さして風景が変わるわけでもなかった。
「やっぱりすてきだわ。」と彼女は戒壇院のお堂を見上げて入ったときと同じことを言った。
「なんか、かっこいいね。」と僕は語彙の無さに自分ながらあきれながら応えた。
そして、僕たちは老年夫婦とすれ違いながら元来た階段を下りて行った。階段を下りて細い道を戻りながらN子は僕に聞いた。
「ねえ、何をお祈りした?」
 僕が答えないうちにN子は、
「私ね、この出会いを心から感謝しますってお詣りしてきたの。」とうつむき加減の姿勢で僕に言った。
 僕は鼻の奥がつんとなる思いをしながら、
「僕は何も言えなかったよ。」とだけ言った。

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