幼春 第八章「二十五歳の賭け」



就職してからは飛ぶように時間が過ぎた。新しい環境で僕は初めて一人暮らしを始めた。会社では、研究所に配属となった。独身寮と会社と、そして飲み屋を行ったり来たりする毎日であった。実家には学生時代より少なくなったが仕送りは続けていた。特に仲のよい友達ができる訳でもなく、多分周りからは暗い新入社員と思われていただろう。事実僕は明るくなかった。『こいつらはなんでこんなに単純なやつらだろう。仕事にそんなに使命感を持てるなんて。』などと不穏当なことを考えていたものだったから。
あっと言う間に一年近くたとうとしていた1980年2月、僕は二十五歳だった。高校時代のクラスで少ない友人のひとりであったNが奈良で結婚式を挙げることになり僕も呼ばれた。僕はほんとに久しぶりにN子と会う約束をした。今度も彼女は二つ返事で応じた。二月十一日の十一時に僕たちは近鉄奈良駅の行基像の前で待ち合わせた。彼女も同じ二十五歳。初めて化粧したN子を見た。そばに寄ったときに香りがした。強烈な印象だった。僕たちは、冷たい風の中、奈良公園を散歩し、季節はずれで人気の少ない東大寺の境内を通り、大仏池を横目に戒壇院を抜けた。戒壇院から市街に降りる階段のところで彼女が少しよろめいたので、僕はあわてて肩を支えようと彼女のコートの肩をつかんだ。N子は、しかしこう言った。
「私、大丈夫だったと思うわ。」
「え?」
「支えてもらわなくても転ばなかったってこと。」
別に深い意味のあることばではなかったのであろうが、僕はとても恥ずかしい思いをした。
とは言え、久しぶりにN子に会って僕の気分は昂揚していたし、彼女もよく話した。
「今日はね、久しぶりにね、前向いて歩けるわ。」
「え?」
いつものようにわかりにくいことばだった。
「なんか、とても気持ちがいいの。こんな気分はほんとに久しぶりよ。」
「そう。それはよかった。」
「こういう日に友達に会えるのって幸せだわ。なんでも話せる友達って大事ね。ずっとこうして会ってくれる?」
僕は、なんて言っていいのか、いつものように次のことばを考えているうちに、前に何度か来た白門館という喫茶店に着いた。

僕たちは、熱いコーヒーに冷たいたっぷりのクリームを浮かべた、その店ではルシアンコーヒーと呼ぶ飲み物を頼んだ。しばらくたって、僕はやっと口を開いた。
「奇妙だね。」
「ほんとね。」とN子はしばらくの沈黙の後答えた。
このやりとりで、僕はそれから始まる会話を予想してしまった。きっとN子もそう思っただろう。僕はやっとの思いでしかし一気に言った。
「僕はこの十年ずっと君にこだわってきた。いつ電話しても気軽に話せる。こうして会える。それはいったいどういうつもりなんだろうといつも考えてた。僕は、僕のこだわりに対する君からのいろんな信号を受けてきた気がしている。でも、いつもこの信号の意味はなんだろうと悩んでばかりいてもう十年たってしまった。そして、僕は親から離れたいばかりに東京へ行ってしまった。遠く離れてしまって僕の中の君へのこだわりはますます大きくなってきた。こうして久しぶりに君に会えてとても楽しいし、君も楽しいって言ってくれたんだけど、何かこのままこだわりを残して東京に帰ることはできないよ。」
N子は黙って聞いていた。
「改めて聞きたいんだ。君が、僕のこだわりに対して今まで出してくれていたあの信号は、一体何なんだ。僕は、その信号を僕への正の回答と思っていいのか。」
僕はほんとに妙な表現を使って彼女にせまった。
長い沈黙があった。僕はずっと黙っていた。そして何本もタバコを吸っていた。N子もルシアンコーヒーを黙ってかきまぜていた。もう彼女のカップの中では、クリームとコーヒーが混ざり合ってしまっていた。そしてその沈黙を破ったのはN子だった。いつものように、ちょっと斜め右を伏し目がちに見ながら、ひとりごとのようにN子は言ったのだった。
「あのね。I君はね、私の仲間なの。同じクラブで出会い、同じ趣味をもったとても気の合う仲間なの。同じ方向を向いていると思うの。きっとあなたは私にそっくりだと思うの。同じように考え、同じように悩んでるの。だから、I君は、私にとっては、女でも男でも構わないの。だから、ふたりがそれぞれに結婚してもこうして会いたいと思ってるの。」
普段であればそこで黙ってしまう僕もこのときばかりはさらに聞いた。
「その話は前にも聞いたことがある。でもね、僕が聞きたいのは、君が僕を男としてどう思うかってことだよ。」
「どうって・・・。I君は、私があなたが期待している返事をしなかったらもう会ってくれないの。」
「そうかもしれない。わからない。」
これは僕にとってある意味で賭けであった。はっきりと聞かない状態をずっと選んできた。それでこの状態が続けばそれでいいと思ってきた。しかし、僕はここではっきりとしなければ、もう永久にこのなんとも言いようのない状況から抜け出せない気がしていたのだ。
「お願いだ。はっきり言ってほしい。君は僕のこだわりに対して、僕が君を女として好きだというこの気持ちに応えてくれる可能性はないのかい。」
「はっきり言っていい?」
一息置いて、ついにN子は言った。
「ないわ。そうなるってこと、私には考えられない。」
N子はルシアンコーヒーのカップをながめながら静かにしかしはっきりと言った。
僕は、そのN子の指先をながめてしばらく何も言えなかった。やがてやっとの思いで
「そうか。よくわかった。」とだけ言った。
僕はその後、ほとんど何も言えず窓の外をぼんやりながめていた。N子も何も言わず斜め下を見ていた。どれくらい時間がたっただろうか。
「出よう。」と僕は言った。そして伝票をつかみ、レジに向かった。N子は黙って付いてきて、自分の分を僕に渡した。僕におごらせないのはいつもの通りであった。
僕たちは、東向通りを抜けて近鉄奈良駅に向かった。そして駅へ降りる階段の前で僕は精一杯の笑顔を作って彼女の方を振り向いて言った。
「さよなら。ありがとう。」
それだけ言うと、僕は一目散に階段を駆け降りた。N子の方をもう一度見ることはできなかった。

次の日、京都から乗り込んだ新幹線の中で僕はずっと窓の外をぼんやり眺めていた。
『僕の恋は終わった。涙よ、流れるな。これから僕はどうやってN子を僕の心の中から追い出せばいいんだ。ずっとずっとこだわって、ずっとずっと悩みを抱えてきた。全てが彼女を中心にグルグル回っていた。そんな僕のこだわりをどうやって流せばいいんだ。一度めは無鉄砲な手紙だった。二度めは、第三者からの予期しない告白、そして今回が三度めの正直か。最後の賭に破れてしまったのか。最後には、「可能性はない。」とまで言わせてしまった。なのに、まだ僕は心底蹴飛ばされた思いがしない。どうしてもっと激しく僕を拒否してくれなかったんだろう。僕は、彼女が結婚して手の届かない所へ行ってしまわない限り、ずっとずっとこだわりを捨てることができないだろう。ひょっとすると、結婚とは関係なく一生こだわるのかもしれない。』
どうしようもなく暗い気持ちで、僕は入社一年目の後期研修に入った。毎日荒れた。毎日討論会があったが、僕は全てに反抗的か逆に諦めか、とにかく創造的な提案も何もせず、暮らした。そんな中、久しぶりに福永武彦の『愛の試み』を読み返した。そして思った。
『孤独の恐ろしさに尻込みしつつ、その砂漠をのぞき込もう。今がそのチャンスだ。他者を愛する、いや愛されることで、この孤独を癒してもらおうとしてきた。しかし、それは明らかに誤謬であった。もっともっと強くしよう僕の孤独を。もっと鍛えよう、僕の孤独を。こんな絶望的孤独をごまかしてはいけない。認識してそして凝視しなければならない。足すくむ思いで崖下をのぞき込むのだ。そうでなければまた同じ誤りを犯すに違いない。もう鎮痛剤に頼ってはいけないのだ。凝視してその深さを認識するのだ。今こそその時、今こそその契機だ。』

僕は頭ではわかっていた。理解したつもりだった。でも気持ちが感情がどうしても付いていかなかった。未練だった。

日々の暮らしの中で私が私であるときは
毎日の流れの中で私が私を見ているときは
一体どれくらいあるのだろうか
ペンを持ち ことばを口にし ものを目に写す
それが私であるのだろうか
そんな日々を暮らしているのは
それが私であるのだろうか
私が私を閉じ込めておく箱
私が私を見つめる鏡
私が私をことばにする唇
私が私を書き留めるノート
私が私である私の時間
その暗やみに足すくませ
思わず目を閉じ
口をつぐみ
インクは涸れ果てる
ああ脆弱なる孤独よ

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