幼春 第四章「二十一歳」



僕は学部の三回生になっていた。相変らずの多忙な日々が続いていた。N子とはあの手紙のやりとり以来接触はまったく途絶えていた。それでも、ほとんどN子のことを考えない日はなかった。

風が吹いて
頭が晴れて
僕は僕ひとりであることを知り
アクビひとつして
僕は本当に生きてるのかしらと思う
 
雨が止んで
目の中のウロコが取れて
太陽の明るさに目を細め
僕は一体何をしているんだと言ってみる

僕は何にもわからない
あの子の影もだんだん薄れて
僕はためいきついて
追いかけなきゃと思うのに
力が出ないよ
僕はあの子の何だったんだ
僕は本当にあの子を
本当に好きだと言えるのか

雪をかきわけたら
カエルが笑ってた
僕もお追従笑いひとつ

トントンとドア叩いたら
頭から水をかけられた
僕はうっかり苦笑い
僕は僕はおぼれてしまいそう

二十一歳になった一九七五年の秋、僕は友達から京都の展覧会のチケットを入手した。京都の市立美術館で開催されていた泰西名画展と名打たれたアーマンドハマーコレクションだった。僕は意を決してN子に電話した。ずいぶん久しぶりの電話だった。
「もしもし、Iと申しますが、N子さんいらっしゃいますか。」
「あ、I君。いつもN子がお世話になってます。一度遊びにいらっしゃいよ。」
N子のお母さんとは、電話でしか話したことがないが覚えていてくれていた。N子とタイプが全く違う明るい感じのお母さんだった。N子が電話に出た。
「今晩は。」
「元気にしている?」
「なんとか生きてるわ。相変らずの毎日よ。とても忙しいの。」
「大学が?」
「うん。少し習いごともしてるのよ。」
「え? 何習ってるの?」
「ハモンドオルガン。」
「へえ。」
「で、今日はどうしたの。」
「あのね、ハマーコレクションのチケットが手に入ったんだよ。よかったら一緒に見に行かないかい。」
「そう。私も行こうかなって思ってたのよ。」
「それはちょうどよかった。一緒に行こうよ。」
「そうね。いいわよ。久しぶりだしね。」
「今度の日曜空いてる?」
「十一月三十日よね。空いてるよ。」
「オーケー。決まった。じゃさ、京阪三条の駅に十時でいい?」
「うん。いいよ。」
相変らず彼女の声は小さかった。でも、僕は久しぶりに会う約束が取れて、チケットをくれた友達に感謝の気持ちで一杯だった。それにとてもうれしくて仕方がなかった。でも、当然デートとは呼べるものにはなりそうになかった。そう、来るものはこばまない友達として、僕は会えるんだから、と思った。

そして十一月三十日になった。
僕はずいぶん早く家を出た。京都行きの近鉄急行に乗った僕は買ったばかりのトレンチコートを着て気分が昂揚していた。空いた席には見向きもせず、ずっと立っていた。丹波橋で京阪電車に乗り換え、そして当時の終点だった京阪三条の駅に降り立った。九時半だった。何本もタバコを吸いながら僕は彼女を待った。十時少し前に彼女は、かわいいチェックのダッフルコートに身を包んで現われた。
「ごめん、待った?」
「いや。早く来過ぎたんだ。じゃ、行こうか。」
「うん。」
久しぶりに見る彼女はなにかとても明るかった。もう彼女も二十歳。あと一月で二十一歳だった。僕たちは平安神宮への道をたどりながら岡崎公園の京都市美術館に向かった。
「よく展覧会は行ってるんだろう? 僕はほとんど初めてに近いな。」
「うん、そうね。割と好きだから。いつもひとりで行くのよ。」
「今日は迷惑だったかい。いつもひとりなのに。」
「そんなことないよ。これ見たかったのよ。だからとてもうれしかったわ。それにね。ひとりで行くのはね。一緒に誰かと行くと、見て歩く早さが合わなくて悪い気がするの。私、とっても時間がかかる人なの。」
「そう、わかった。あんまり気にしなくっていいよ。早さのことは。」
「うふふ。わかったわ。『あんまり』ね。」
「いや、そういう意味じゃないよ。ほんとに気にしなくっていいからさ。」
相変わらずのするどいつっこみにたじろいだ僕だった。
会場に入ってからは、彼女はとても真剣な顔をして、一枚一枚ゆっくりと時間をかけて見ていった。僕は僕で、好きな絵の前では結構頑張った。でも、とても混んでいたので、彼女のことを気にしないでいるとはぐれそうになった。結局僕は彼女のそばにくっついて歩いていた。やっと見終わって僕たちは出口のポスター売り場に行った。僕はモジリアニの『町の女』という絵を買った。彼女は結局何も買わなかった。
「モジリアニが好きなの?」
「あんまり知らないんだ、絵は。でも、この瞳の無い目がさ、僕を見つめているみたいでさ。引き込まれちゃったよ。」
「そういう正体不明な不思議さにあこがれるって訳ね。」
「分析しないでよ。でも、混んでて疲れたね。」
「そうね。」
「結局、はぐれないためにくっついて歩くしかなかったよ。」
「それで余計疲れたでしょ。ごめんね、ゆっくりで。」
 僕はあわてて、まずいこと言ってしまったと、
「そんなことないよ。また行こうよ。」
「そうね。でも、無理に誘ってくれなくてもいいのよ。私見たいものは自分で行くから。」
「無理なんかしてないよ。どうしてそんなこと言うの。」
「ほんとに無理してない? 疲れるでしょ、私って。」
「久しぶりに会って、君の方が疲れたのかな。僕は結構おもしろかったよ。」
「ほんとに? よかった。」

相変らずのN子だった。警戒感で一杯だった。でも、どうしても惹かれてしまう僕だった。僕は自分ではなぜ彼女に惹かれるのかその理由をよくわかっていなかった。ただ魅入られていたと言うしかないだろう。僕たちは美術館を出てから四条河原町まで散歩し高瀬川沿いの音楽喫茶に入った。
「もうじき誕生日だよね。」
「うん、来月の二十六日なの。I君はもう二十一になっちゃった?」
「先月になったよ。早いもんだね。初めて会ってから六年近くもたっちゃったね。」
「そうね。でも昔の話はあんまりしたくないわ。」
僕は触れてはいけない話題に触れてしまったことに気づいた。でも、来るものはこばないと言ったことばを信じることにした。
「どう、大学は。」
「私ね、絶対に職業教師にはなりたくないの。実際、教師は私の職業になるのよね。でも、仕事でやってますって言いたくないの。何か子供達に接するのに、普通の仕事のように給料をもらうことを目的にはしたくないの。例えば高校時代のH先生みたいなのは絶対いや。」
「そう。Hか。」
僕は、高校時代の化学教師で、いかにも教師が商売って感じで振る舞い、自分でも平気でそう言っていたHを化学室の匂いとともに思い出していた。
「でも長い間職業としてやってると情熱をいつの間にか失って、日々の生活につい流されてしまうこともあるんだろうな。今のその気持ちを忘れないようにしたらいいね。」
「それって一般論ね。」
「えっ、気に触った? それ以上の言い方ってないじゃないか。」
つい鼻白んで言った僕に対してN子はほほえみながらこう言った。
「ごめん、あなたらしいリアクションね。一々反応するところが。」
やられたと僕は思った。また術中にはまってしまった。
「誰か好きな子できた? あなたには、かわいいタイプの子が似合ってると思うわ。全身で愛情を表して、あなたの方をじっと見ているような。」
僕は追い打ちが来たぞ、と思った。あの手紙以来会ってないんだから、当然牽制球が来たのだ。
「そうかなぁ。でも話が合わないとちょっとね。」
「そんなことないって。話なんて何だっていいのよ。好きならね。自然にわかりあえるようになると思うよ。」
「好きなことが一番重要な訳だね。」
「そう。でもしっかり見なきゃだめよ。私ね、今好きな人がいるの。とても新鮮なものを感じるの。」
「新鮮さか。」
「そう、新しい発見がしたいの。新鮮な驚きって大事だと思うの。そういう発見を人だけじゃなくすべてのことに求めていなければいけないって思う。」
「相手が新鮮なだけでは、相手のことが全然わかんないだろう。全く理解していないってのはイヤじゃない? 逆に慣れ親しんだのはだめなの?」
「それは結果ね。新鮮な発見の喜びをこんどはじっくりと育てて行くのよ。それが愛ってものかしら。愛し、そして理解がついてくる。」
「最初に好きだって思い、それを相手に示し、そして理解を深め愛を深めていくんだろう。それなら、僕もわかるな。愛は思い込みだと思うんだよ。まず、相手が好きだってことが重要だと。」
「むくわれないことも多いわね、きっと。」
「そうだな。」
「でも、愛情とは別のところにある、男女の間の友情も信じていたいのよ。」
「じゃ、友情と愛情の違いはなんだい?」
「理解し合ってるってことかな。」
「じゃ、逆に理解していないと友情は存在できないね。」
「極論よ、それは。どちらかと言えばって話よ。きっと男女の友情はあると思うよ。男だ、女だ、っていうところとは無関係に理解し、思いを共有するのが友情よ。」
『これは一体何なんだ。よしてくれよ、全く。なんでそんなに警戒するのかな。じゃ、僕たちは何なんだ。君は、僕が君を理解していないと前に言ったよね。好きだとも思ってないんだろう。すなわち僕には愛情も友情も何も無いってことかい。』と言えないことを思った僕はしばらく黙り込んでしまった。

『じゃ、なぜ僕と会うんだ?』と咽まで出かかった言葉を飲み込んで僕は話題を変えた。
「僕ね、最近ギターに凝ってるんだ。ギターと言ってもクラシックじゃないよ。フォークのインストルメンタル。」
「何それ?」
「インストって歌のないギターだけの音楽さ。」
「へえ。フォークでもそんなのあるの。」
「あるんだよ。おもしろくってね。それでね。来月の君の誕生日にね、よかったら、僕の録音した僕の演奏を贈りたいんだけど。」
「え?ほんとに。どんなのかしら。」
「もらってくれるの?」
「うれしいわ。楽しみに待ってる。」
「実はね。僕のオリジナルも入れるんだ。自分で作った曲。Nちゃんラグってギターのインストの曲なんだ。聞いてみてよ。歌もあるよ。」
僕は、まだできてもいない曲のことをしゃべってしまった。前からポールサイモンや中川イサトの演奏を真似していた僕は、いつかN子のためのギター曲を作ろうと思っていたけど、まだ十分にできていなかった。『どうして俺はいつもこうなんだろう。舞い上がったら何を言うかわかったもんじゃない。大変だぞ。できなかったら大恥だ。』と思いつつ、彼女を見た。N子は、コーヒーカップをスプーンでかきまぜながら僕を見た。
「どうしたの。あんまりじろじろ顔を見るもんじゃないわよ。」
「ごめん。もし、よかったら、またこうして会えるかな。」
「そうね。でも、私と会ってて楽しいかな。私はこういう人だから、好きなことを好きなように楽しんでしまうから、一緒にいてどうかしらって思うわ。」
「緊張感があっていいよ。ある意味で楽しんでる。だから誘ってる。君は僕といてどんな感じかな。」
「そうね。つい好きなことを言ってしまえるし、気をつかわなくて済むから助かるわ。ごめんね。勝手なこと言って。」
「ははは。こりゃいいや。私は空気みたいですかな。」
「そんなことないよ。私によく似た人だと思うのよ。どこがってうまく言えないけど、同じ感じがするのよ。」
僕たちは陽のある間に京都駅に着いた。彼女は国鉄奈良線で、僕は近鉄なので、あっさりと改札口で別れることにした。
「またね。きっとテープ送るからね。」
「ありがとう。さよなら。」
そう言って彼女は僕の方を振り向きもせずに言ってしまった。
僕は、その後ろ姿を見送ってためいきをひとつした。

それから、僕は毎日曲作りに励んだ。オリジナルは二曲。一曲は歌で、『冬のあしたにゃ』、そしてもう一つは、ギターのインストルメンタルで、中川イサトのアレンジした『自転車ラグ』に影響されたCラグの『Nちゃんラグ』だった。曲目だけ先に決まって作るのだから大変だった。僕は音質の良さはカセットでは期待できないと信じていた。事実当時のカセットステレオデッキは、まだドルビー方式が一般的ではなかったので、ヒスノイズはひどいものだった。それで、アカイの2レバーのオープンデッキを使っていた。マイクを友達から借りて、夜中に録音した。言ってみれば僕の初めてのアルバムだった。結局二週間毎日録音を繰り返した。最後に別の友達に借りたカセットデッキでカセットテープにダビングして、手紙と一緒に送った。

前略
先日は付き合って下さってありがとうございました。久しぶりに会って、なんというか、やはりKさんだという 感じを持ちました。自分にも厳しく生きていこうしている姿はよくわかりました。でも、少しつらかったことは否めません。でも、そこがKさんなんですね。
で、本題です。お誕生日おめでとう。
心ばかりのものを贈ります。聞いてみてください。
一曲めは、『自転車ラグ』で、高田渡という人の歌を中川イサト氏がギターインストるメンタルに編曲したものです。二曲めは、中川イサトの『セブンブリッジ』というインスト、三曲めは僕の大好きな歌で中川イサトの『その気になれば』、四曲めは、僕の『冬のあしたにゃ』、そして僕の『Nちゃんラグ』というインスト、最後は高校のときのマンドリンクラブのテーマを僕がアレンジしたインストです。
十分練習できていないのでへたくそですが、精一杯です。テープの裏は空いてますから。
じゃ。

KN子様
IHより

暮れも押し詰まったクリスマスイブの日、N子から電話があった。
「テープ着きました。ありがとう。少し話があるからあした会える?」
「いいよ。何の話?」
「会って話したいの。」
「わかった。」
次の日、僕はとても寒い近鉄奈良駅の行基像の前で彼女を待った。彼女は時間どおりに現われた。京都のときと同じようなダッフルコートを着ていたが、模様が違っていた。リバーシブルのようだ。
僕たちは、寒い人気の少ない奈良の町を散歩した。いつものように、東向き通りの途中から興福寺の方に上がっていき、五重の塔の前を斜めに通り、大仏殿まで長い距離を歩いた。南大門の前の鏡池が凍っているように僕には思えた。そして聞いた。
「ねえ、この池凍ってると思う?」
「さあ、どうかしら。」
「こうしたらわかるさ。」と僕は大きめの砂利をひとつ手に取って、池に放り込んだ。水面に穴が開いた。池はやはり凍っていた。
「あ、そうね。そうすりゃわかるよね。理科系ね。実証主義ね。」
「実証主義か。でも僕は結果が僕のつらい方向に出てしまうかも知れないことは確かめようとしないのさ。ずるいって言うか、こわがりって言うか。」
「そうかしら、結構無茶するんじゃないの。」
「そんなことないよ、もう。・・・」
僕たちは大仏殿の回廊を迂回し、大仏池のほとりを歩き、古い町並みを抜け、また繁華街に戻った。そして、二年前の五月に入った餅飯殿通りの入り口の白門館に入った。
「テープありがとう。結構驚いたよ。いつの間にギター弾けるようになったの。でも歌も入っててほっとしたわ。」
「お恥ずかしい。」
「こないだの京都はごめんね。私ずいぶんひどいこと言ったかもしれないと思って。」
「え?」
「手紙でやっぱり私らしいって書いてたでしょ。それに『自分に厳しく』って書いてたところで、『自分にも』って最初書いて、それから『も』を消してあったでしょう。よくわかったの。」
「そうだったかな。」と僕はとぼけた。
「自分では警戒してた訳じゃないと思ってたんだけど、結果としてI君につらくあたったようだと思ってそれで今日会ってもらったの。こないだはね、私の本当に小さなもろいところで話してたの。ごめんね。」
「そんなことないよ。」
「私ね、こうして話すの、とても楽しいよ。多分I君は私と同じ種類の人だと思うの。」
会って説明してくれているんだ、N子は。そう思うと僕は、今日の彼女のことばが改めて僕たちが友達であることを認識させているにも関わらず、幸せな気持ちになっていた。僕はニコニコしてうなづくばかりだった。
「あのね、言っていい? あんまりうなづいてばかりいるのはいけないと思う。ちゃんと自分の言いたいこと、言うべきことは言わなきゃ。」
「やるべきときにはそうするさ。」
僕は、『ああ、またやられた。』と思い、冷めてしまったルシアンコーヒーを飲みながらぼそっと言った。
「え?」
「なんでもないよ。ところで、お正月に会えないかな。」
「そうね。あなたの歌じゃないけど、その気になったらね。」
僕たちは、国鉄の奈良駅で別れた。

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