幼春 第三章「二十歳」



僕は一回生の夏にマンドリンクラブを結局退部してしまっていた。あっと言う間に大学の二回生になっていた。しかし、N子にはなかなか会う機会がなかった。会う理由も見つけられず、電話するのはとても勇気のいることであった。僕は会いたかった。話したかった。でも、なにか気おくれしてしまっていた。決心して電話しても彼女は留守だったりして、時間ばかりたっていた。理科系の悲しさで、実験のレポート、試験等に追われて大変な毎日が続いた。でも、毎日夜中になるとたとえようもない寂しさが僕を襲った。僕は孤独だった。友人も少なく、なすべきことも見つからず、家と大学の往復で日々が過ぎていくのに無性に焦りを覚えた。足りない何かを求め、それが求めても求めても手に入れることができないのではないかという焦燥感で一杯だった。そう、その何かは僕の中でますます大きな位置を占めてしまったN子のことであった。僕は寝てはN子の夢を見、N子と夢の中で話し、起きては何もせずただ彼女のことを考えていることが多かった。僕はある意味で狂っていたと言えよう。この気持ちを伝えねばならない、と思い込んでしまっていた。この気持ちを伝えれば、伝えさえすれば、この孤独感、焦燥感はきっと彼女の微笑みで癒されるに違いないと思い込むに到ってしまった。
正に僕は、自分を救ってくれる対象としてN子を見ていたのだ。自分が彼女に何かをもたらそうとか、与えようと言う感覚はまるで持ち合わせていなかったのだ。それが二十歳にもなろうとしていたのに全く未熟な僕だったのだ。僕は、便箋と封筒を買った。彼女を思っていると信じていた僕のこの気持ちを伝えるための手紙を書いた。書いては捨ててまた書き直すことを繰り返した。最後に書き上げた手紙は、読み返すことなく一週間ずっと投函できずに僕の机の引き出しにしまってあった。一週間めの真夜中、僕の二十歳の誕生日に僕は手紙を持って近所のポストまで出かけた。そしてポストの前で長い間逡巡した。どれくらいたっただろう。とうとう僕は目をつぶってポストにおそるおそる手紙を入れた。パサッと乾いた音がした。僕の心臓はつぶれそうに高鳴っていた。

前略
その後お変わりありませんか。僕はなんとか生きています。ずいぶん長い間お会いしていないのに、突然こんな 手紙を出して申し訳ありません。
僕はあなたのことを考えない日はありません。毎日毎日KN子のことを考えています。高校のときに、僕はあなたに新鮮な驚きの感情を持ちました。僕の知らない不思議さがあなたにはありました。これを十分に説明できる文才は僕にはありませんが、あなたはそれまでの僕の想像を超えた存在であったように思います。いつも小さな声で 話していましたね。いつも遠くを見ているようでした。でも、あなたの鋭い感覚に満ちたことばは僕を、多分あなたが知らないところで、励まし、そして叱咤してくれていました。
僕はあなたのことばをひとつひとつ噛みしめ僕の中で一生懸命消化しようとしました。でも、その間にあなたは 別のところへ行ってしまうのでした。いつしか僕はそういうあなたから目が離せなくなってしまっていました。
僕はあんなに近くにいながらどうしてそれに今まで気づかなかったのか自分が情けなくなりました。でも今はっきりと認識しました。僕はあなたが好きです。
そう、ただ好きになったというその事実だけをしっかりと認識することにしました。あなたを僕は少しも理解していないかも知れません。もっと言えば僕は理解することを放棄したのかも知れません。でも、理解することと好きになることは全く別だと信じます。僕はあなたが好きなのです。
この僕の手紙の内容はあなたにとって十分唐突で、とても失礼なのかもしれません。お許し下さい。でも、僕は あなたに今の僕のこの気持ちを伝えずにはいられなくなってしまったのです。どうか僕のこの気持ちを少しでも感じて下さることを望んでいます。
KN子様
IHより

僕は、手紙を出してから結局後悔してした。なんて唐突に全く手順も踏まえず、それに全然なぜ好きなのかを説明せず、いきなり好きだと言ってしまうなんて。僕は夜を憎んだ。夜のせいにした。夜はどうして人を変えてしまうのか。明るい陽のもとでは、赤面してしまうような非常識な行動をどうして夜は人にさせるのであろうか。僕は手紙を出す前のつらさ以上のつらさ、情けなさを味わっていた。
十日ほどたって、N子から短い手紙が来た。

IH様

私はとても驚きました。そして少し悲しかった。あなたは、今まで私を本当に見たことがあるのでしょうか。この私を。あなたは今の私を全く知らないのに、一体どうして私を好きだなんて言えるのでしょうか。
愛と理解は同時に必要なものではないかも知れません。でも、全くの無理解からは本当の愛は生まれないと思います。私はあなたが思っているような人間ではありません。本当の私を知ったらあなたはきっと考え直すでしょう。
どうか冷静になって下さい。そしていい友達でいて下さい。

KN子

当たり前の反応であったのかも知れない。あまりに唐突な告白が何も生まないことを証明してしまった。僕の生活は前以上にみじめな日々に戻ってしまった。散々な二十歳であった。でも、僕はN子が好きだった。友達でもいいから彼女が全く手の届かないところへ行ってしまわないことだけを願った。

秋風の吹きぬけるがごと
我が十代の過ぎ去りぬるか
否、否 秋風を吹かせしは我
而して 秋風を暖風に変えさし得るも我

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