幼春 第一章「出会い」


これは、私の幼い春の記憶の発酵物です。私の中で、記憶が特定の人の幻影を触媒として、 15年以上の時間を経て私の都合のいいように発酵しました。この小文は、その発酵物を記 録したもので、事実とは全くかけ離れた創作になってしまったことをお断りします。


僕は1970年四月に、奈良県立N高校に入学した。浄土に咲くと言われる空想の花である宝相華 を校章にしたその高校は県北の奈良市にあった。僕は奈良盆地の南にあるK市に生まれ育ち、 市内の市立中学を卒業した。K市は、戦前は神武天皇が即位したと言われる場所に建てられた 神社があることから全国的にその名を知られていたそうだが、今はローカルな知名度しかない 田舎町である。奈良県には県立の進学校としてK市のU高校と奈良市のN高校が覇を競ってい た。K市在住の僕にとっては、U高に通う方が圧倒的に便利だったし、周りの同級生も進学組 はU高をめざしたように、僕の周囲はみんなU高に行くのが当たり前と思っていた。でも僕は、 U高の洗練されないやぼったさというか、質素な硬派さと不釣り合いな金ぴかの校章が好きで はなかった。それに、電車に乗って通学したいという子供っぽい気持ちや都会へのあこがれの ようなものも相俟ってU高のライバルであるN高を選んだ。
受験申し込みの日が暦で先勝であったため、中学の教師の計らいで受験番号5番という若い番 号をもらった僕は、縁起かつぎのおかげもあってか、合格することができた。初めて履く革靴 と、N高の校章を誇らしげにかざった学生帽をかぶり、中学と違って名札の付いていない学生 服に身を固めた僕は、慣れない電車で緊張して登校を始めた。奈良市はK市から来た坊主頭の 僕にとってはとても洗練されている都会に思えた。学生帽をかぶっている先輩は誰もいなかっ た。たしかに帽子は不格好であった。僕はすぐに帽子をかぶるのを止めた。それに僕にとって は女生徒は特に先輩の女生徒はどきどきするほどきれいだった。
最初の新入生ガイダンスの日、会場へ移動する途中、各クラブの勧誘パフォーマンスがあった。 その中で、僕が目を奪われたのがマンドリンクラブであった。僕は中学時代、ブラスバンドに 入っていた。だから音楽関係にはとても興味があった。マンドリンは初めて見る楽器でとても 僕の興味をひいた。N高マンドリンクラブの実力は結構有名で、僕がN高を選んだ理由のひと つにもなっていた。
僕は、迷わずマンドリンクラブに入部した。そこには、県北の洗練された先輩達がいて僕は伸 び始めた坊主頭から匂う田舎くささになんとなく恥ずかしさを感じながら練習に通った。一緒 に入部した新入生は二十人ほどいたが、男は僕とTのたったふたりで、あとはみんな女生徒だ った。Tは僕と違って水泳部にも属する格好いい県北の都会派だった。僕はできるならギター かマンドリンをやりたかった。しかし、そのときすでに当時ではめずらしく一八〇センチも身 長があった僕は、先輩のMに、
「君はからだがでかいな。ベースをやってみろよ。ベースは立って弾くし、人数も少ないから 目立つぜ。」と言われて、
「はい。」と答えてしまった。

練習は、日によって、二階の先輩の教室が使われることがあった。部室は少し離れた半地下の 小講堂の近くにあった。そこから、みんな楽器を運んだ。僕は大きな重いベースを運んだ。
そんな生活が始まった五月のころ、ベースをかかえて二階への暗い階段を上るとき、同じ新入 部員でギターのN子と一緒になった。そのとき、僕はN子と初めて話した。
「ねえ。Kさん。」僕は彼女を名字で呼んだ。
「え?」N子はびっくりしたような声を出した。
「なに、I君?」人なつっこい笑顔で聞いた。
「君の名前はなんて読むの。」僕は彼女の名前の漢字の読み方を2つ言って、
「ねえ、どっち。」と聞いた。
「さあてね。」彼女は僕の質問には答えずそれだけ言って、重いベースを運ぶ僕をおいて先に 階段を上がって行ってしまった。たったそれだけの会話だった。
いつもそうだった。女の子たちが彼女を呼ぶのを聞いて彼女の名前を正確に知った後も、彼女 は僕にとって難解だった。僕が中学時代に仲のよかった女の子たちはみんなわかりやすかった。 でも、彼女は僕にとって不可解だった。いつも遠くを見てるようで、単純な田舎ものの僕にと っては、新鮮なおどろきだった。
それがある意味での僕にとっての青春の始まりだったの かもしれない。当時、僕は中学の卒業式の日に僕の靴箱に入っていた手紙がきっかけで手紙の やりとりを始めた同い年のK江が好きだった。K江は、中学時代のある意味での初恋の対象で、 高校入学が決まったあとに初めて一緒に出かけた女の子だった。そのデートは僕にとって生ま れて初めてのものだった。でも、そんなに頻繁に会うこともできず、僕はたくさん手紙を書い た。手紙が僕たちをつなげてくれていると信じていた。しかし、K江にとって、手紙で小難し いことを話す僕はだんだんけむたくなっていったようだ。結局だんだん心がずれていった。高 校二年生の頃にはもう返事が来なくなっていた。それで僕の初恋は終わってしまった。それ以 来、女の子は僕にとっていつも遠くから見ているだけの存在だった。僕はますます暗い男にな っていった。

N高は進学校であり、そのため、クラブ活動は二年と少しで終わってしまうのが普通だった。 僕が二年生になったとき、受験のため引退する三年生に指名を受け、マンドリンクラブの部長 になった。部員は約三十名で、一年生と二年生では男は僕と指揮者をやることになったTの二 人だけだった。部長に選ばれたのは単に男だったからではないかと僕は思っていた。人をひっ ぱるタイプでは全く無いと自分のことを思っていたからだ。とても大変なクラブ運営だった。 僕は自分のことを、信頼はされても決して慕われる、好きだと言われるタイプではないと思っ ていた。僕はずっとひどいコンプレックスの塊だった。自分は醜い、格好悪い、暗い、気分屋 だと。これではとても女の子に相手にされる訳がなかった。そう思っている自分の態度がよけ い女の子を遠ざけることもわからなかった。クラブ運営は誰かとともにやると言うよりも僕の 意識の中では自分ひとりで一生懸命やっていた。
そういう僕は、クラスの連中とも気が合う訳がなく、完全に孤立していた。イヤな奴だったと 思う。クラスの文化祭での催しにもほとんど協力せず、クラブばっかり行ってた。僕にとって クラブは逃げ場所だった。僕にとっては、受験勉強を除くとクラブしかなかったのだ。僕は理 科系だったが、クラブの同級生はTも含めてみんな文科系だった。普段教室では、ほとんど男 に囲まれていたが、クラブに行くと女子ばかりでそのギャップをなんとなく楽しんでいた。で も、そのクラブには多くの女の子がいたけど、誰とも個人的に仲良くなれる訳がなかった。
クラブの同級生でよく話す仲間には、男のT以外に、元気のいいギターのM江、大人の雰囲気 で標準語を話すマンドラでマネージャーのK美、マンドリンのポッチャリしたR子、そしてR 子と仲のいいK子、そしてギターのN子がいた。練習の帰りはTと一緒にR子やK子とふざけ ながら奈良駅まで歩いた。そしてN子はときにM江や下級生と静かに話しながら歩いていた。 N子は国鉄で、それ以外の僕やTたちは近鉄だったので、いつも油阪の交差点で別れた。N子 にはさよならって言うだけだった。そんな頃、クラブでフレットと言う日記を順番にみんなで 書いていた。僕はいつもそこに元気のいい檄を飛ばす文章ばかり書いていたが、N子はクラブ 運営というより、身の回りで起こったことや、自分がふだん感じていることについて、感覚的 な表現で、それも普通の人の三倍くらいたくさんの文章を書いていた。出会いのときに感じた と同じその不思議な雰囲気に僕はとても興味をもった。
僕はますますクラブの中でうるさい部長になってしまい、下級生を泣かせたりしてしまってい た。そういうときにN子はフレットで「あんまり頑張らない方が楽しいクラブになると思う。」 とか、「気持ちよく音楽できるのが一番。」とか僕にやんわり注意してくれていた。でも、直 接はほとんど口をきかない日々であった。

マンドリンクラブの定期演奏会はいつも二月にやっていた。僕たちも二年生の終わりの二月に クラブ創立以来7回目の定期演奏会を開いた。この演奏会がクラブ活動のほぼ最後で、これが 終わったら役員交代して受験に臨むのだった。結局僕はこの演奏会の準備をほとんど一人でや っていた。プログラムを作り、会場を設定し、司会台本を作り、と何の疑問も抱かずにやって しまった。実は誰かに助けてもらいたいのに、一緒にやりたいのに、それが口に出せず、また 誰からも助けが得られず、自分でやってしまうしかなかった。きびしい練習が続いたが、僕は 一生懸命であった。そしてとうとう演奏会の日がやってきた。
僕は自分の思いを、プログラム最後の、マンドリンオーケストラ曲の名曲で、高校生の僕たち にとって精一杯の大曲である「マンドリンの群」に込めた。この曲も含め、演奏会は僕の思い 入れの中で大きな満足とともに終わりを迎えた。演奏会の最後で、これを機に活動を終える二 年生部員の紹介をやった。僕がひとりずつ、一言添えて紹介するのである。N子の番がきた。 彼女はいつものように静かに下を向いていた。
「次はKN子です。いつも静かにギターを弾きつつ、でもしっかりと僕たちを支えていてくれ ています。」
僕の本心であった。そして僕の高校生活の半分を占めていたクラブ活動も終わってしまった。

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